連載  絵画修復雑記① フィレンツェの思い出

 フィレンツェを舞台にした「冷静と情熱のあいだ」という若い絵画修復家を主人公にした映画が若者を中心に大ヒットした。

 街の中心にあるゼッキという絵画修復材料で有名な画材店から竹野内豊演じる修復家が出てドウオモに向かって歩くシーンは印象的で、日本から来た若い女性たちがそこで記念写真を撮っている光景を今でもよく見かける。

 一九六六年イタリアの古都フィレンツェは、未曾有の洪水に見舞われた。アルノ川は氾濫し鍋底のようなフィレンツェの街は水没,多くの芸術作品が甚大な被害を被った。

 これらの作品を修復する為に世界中から援助の手が差しのべられ、多くの修復家がフィレンツェに集まった。私の通っていた修復研究所もこの時、修復家の養成が急務となり設立されたものである。

 この街の偉いのは、それは頑固と言うかプライドが高いというか、一点の作品も修復の為にフィレンツェの外に出さなかった事である。

 各国から集まった修復家達の技法や流儀は様々で大変混乱した事と想像できる。

 この事を契機にしてイタリア政府は、一九七二年に修復憲章とも言うべき芸術作品の修復に関する基本的な考え方と方法を定めた。これが現在ヨーロッパで行なわれている修復技法の原点となっている。

 現在もフィレンツェ在住の、第一線の修復家の多くがお互い協力し研究をしてイタリアの美術の保存修復に貢献している。私も年一回ではあってもフィレンツェ在住の修復家に会って新しい情報を貰い、日本での悩みを聞いてもらったりしている。

 私がイタリアから帰った当時は、修復された作品は他の人の手が入っているので、本物ではないと嫌う人が多かった。私は実際の修復をする以前の問題として、いかに修復する事が大事なことか説いて回らなければならなかった。 

 このような世界の主流となっている現代修復の基本的な考え方を色々な機会をとらえて伝える必要があった。 

 その頃に「冷静と情熱のあいだ」という絵画修復家を主人公にした映画を制作する計画が持ち上がり、少しでも啓蒙になればと思い私も協力する事となった。主人公を演じる竹野内豊さんには私の工房を見てもらい、修復家の雰囲気を出す指導を行なった。こういう事が絵画修復とは何かを理解してもらうきっかけになれば喜ばしい事である。

 情熱を傾けるやりがいのある仕事を求めていた若者が、この映画に触発されてか私のところに弟子入りしたいと訪ねて来るようになった。 

 現在私はこうして集まって来た人達を、土曜日と日曜日に「横浜絵画修復教室」を開き指導している。 

 美術品修復の仕事は現在のところ、十分な収入を得られる仕事ではない。芸術作品を現状のまま出来るだけ長く後世に残すというプライドと情熱がなければやっていけない。貴重な仕事が高収入を得るとは限らないのである。 

 ヨーロッパには貴族出身の修復家が多い。彼らにとっては社会に貢献する名誉ある仕事として、絵画修復は最も相応しいものだからである。それと彼らの社会では古い美術品を所蔵している人達が多く、自分自身や古い家柄の友人の家に伝わる数々の美術品を修復するなど、仕事には困らないのである。 

 フィレンツェで絵画修復の技術を学んでいた頃、私のクラスに貴族出身の女性がいた。ある日彼女に向かってコンテッシーナ(伯爵令嬢)と呼びかけたところ憤然として、「ノーノー、私はマルケシーナです」という。

当時イタリア語の貧弱な私はマルケシーナとの違いが分からず、したがって何の感動も示さず軽く聞き流した。後で辞書を開いてそれが格上の侯爵令嬢である事が判った。有名な貴族出身の映画監督ルキノ・ビスコンティ(伯爵)の親戚であった。今は出身地に帰って仕事をしていると聞く。イタリアは共和国のはずなのに、元貴族ということでプライドを持ち、また一目置かれているように感じた。生徒の中には貴族の子女とお知り合いになるのが目的でこの学校に入ってくる遠謀深慮な輩もいる。 

 私の修復家仲間にも一人貴族出身者がいるが、彼女の工房には何時行っても古典絵画の修復が絶え間なく入って来ていて、うらやましい限りである。

 数年前彼女の工房を訪ねたところ、ちょうどブロンジーノの作品(キリスト十字架降下の図)の修復を終えたところなので見るかといわれ、最初の観客となる幸運を頂くことになり後に従った。ついていった先はピッティ宮殿の厨房跡の広いスペースだった。アカデミア美術館の作品がなぜここにあるのかたずねると、作品が大きすぎてアカデミアの工房では修復作業が出来ないからだという。

 屈強な人夫四人でやっと動かせる三メートル以上もある縦長の分厚い板絵だった。一度置いたら動かせないので、作業しやすいようにと横に寝かせて置いてあった。したがって鑑賞するには高いところから見るか、体を横に傾けなくてはならない。出来映えを確かめるために、彼女は毎日何度となく体を横に倒したことであろう。ミケランジェロが、システィーナ礼拝堂の天井画を描いた時には、背骨が後ろに曲がってしまったことを、バザーリに送った手紙に書いていることを思い出した。

 日本でこのような大きな絵の修復はまずないと思うが、私の工房はエレベータに入るのが百号くらいまでなので、それ以上だと色々と知恵を絞る必要に迫られる。それでも今後そのような仕事に挑戦していきたい。 

 絵画修復の基礎訓練には模写は重要な科目である。修復研究所に通い始めた最初の二年間は、昔の有名な画家達のデッサンの模写を毎週一枚は仕上げなければならなかった。

 二年も終わる頃、実際のモデルを使って裸婦のデッサンの授業があった。もともと裸婦のデッサンを、今は亡き篠崎輝夫先生に鍛えられ得意な方だったので、久しぶりの実際のデッサンに張り切って描き始めたが、どうしても平板な素っ気ない仕上がりになる。まもなくして平面から平面に移す作業を二年間続けた為に立体を平面に表現する感覚が狂った事に気がついた。私は過去にデッサンの訓練を十分行なっていたため感覚を間もなく取り戻す事が出来たが、クラスのほとんどの者が四苦八苦して、途中で投げ出してしまうものもいた。色も形も筆さばきも、訓練して自分を殺し、その作者と一体化することが出来ないと修復の最終の仕上げは出来ない。私の修復教室でも模写は多くやってもらっている。 

 最近画家の方で修復の技術を学びたいというので指導した事がある。補彩の段階ではさすがに色の扱いは慣れたものでクラスの中で群を抜いて早く塗り終えた。ところが最後の微妙な修正のところで形や色がぴたりと一致していない。何回も指摘してやり直し、最終的に完成するまでには根気が必要だった。

 同じ材料を使って似たような仕事をしても画家が絵画に取り組む姿勢や感覚と修復家のそれとは全く異質なものなのである。


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