連載  絵画修復雑記③ 修復教室と修復展

 私が主宰している横浜絵画修復教室は今年で十二年目になる。今までの生徒の中にはプロの修復家となった人も居るが、残念な事に挫折してこの世界から去って行った人の方が多いのも事実である。

 訓練期間が多く必要な割には、世間の評価が高くなくて残念に思っている。建築関係のリペアの仕事をしている人が教室に習いに来た事があったが、間もなく割が合わないとやめてしまった。リペアの仕事は約二週間の研修を受けるとすぐに仕事があり、報酬もとてもいいのだそうだ。私どもはリペア並みに払ってくれるといいのに、と嘆いた事でした。

 それでも美術品の修復をやって行きたいと言う情熱を持った人は多く居ます。他の仕事に就きながら、週末を教室に通って来る人達です。その生徒の情熱に支えられてここまでやってこられたとも言える。

 私共の教室は今まで4回の修復展を行ないました。展覧会を見に来てくれた人の中から、理解していただき、すぐに仕事を任せてもらえた事もありました。又修復展に出した作品を購入したいと言う申し出も多く受けました。修復の仕事を多くの方に見てもらい理解してもらうのも大切な私の役割と思っています。近々5回目の展覧会をやるべく準備中です。

 絵画修復をその修復目的により分類すると、まず大きく分けて保存修復と美的修復に分かれる。保存修復とは作品の現状をなるべく長期にわたって維持するために補強する処置である。一方美的修復は画面の汚れ、変色、欠落等 により作者の表現が損なわれた箇所を鑑賞する人々が見やすいように補完する処置である。

 油絵の保存修復は始める前にまず作品の保存状態について詳細な調査から始める。カンヴァスの強度、カンヴァスの目の疎密、木枠の状態、写真撮影、斜光を当てて画面の凹凸の撮影、画面の損傷の具合,ワニスの有無と黄変の確認、溶剤に対する反応など医者と同じように検査の結果、修復方針が決まる。裏打ちが必要であるとか、絵具の剥離止めが必要か、木枠が弱っているので新しくするとか。クリーニングにはどんな溶剤が相応しいかなど。時には「そんなにきちっと直さなくても応急処置だけして下さい」と言う人も居ますが。

 保存修復の作業の中でカンヴァスの補強のための裏打ちや絵具層の剥離止めに使用する接着剤は大きく三つに分けることが出来る。

 一つは古くからヨーロッパの地中海地方で行われてきた膠(にかわ)による方法である。膠は主に牛と兎の膠を使う。ロシアではチョウザメの膠が好まれる。

 接着を強化し、柔軟性を持たせるために膠に添加する材料には地方性があり、フィレンツェ方式、ローマ方式、更にはルーブル方式などがある。

 膠は接着力が強いわりに処理温度が高くないので絵にとって優しい方法と言える。ただし湿気の多いところではその後、黴や虫の発生するおそれがある。乾燥している地中海地方でこのやり方が発達した所以である。最近は防腐剤の発達のおかげで膠の劣化を防ぐ事が出来、さらに扱いやすくなっている。

 以前東京芸大大学院の学生が訪ねて来たときに、フィレンツェ方式の膠糊がどうしてもうまく作れないと言って相談を受けた事がある。レシピに間違いはないのだが、原因として考えられる事は添加する小麦粉を日本のものを使っているということだった。昔は物流も発達しておらず、修復家は身の回りにある自然材料を使用して、長年かかって経験的に独特な修復技法をあみ出し発展させてきた結果、技法に地方的特性が出来たのであって、イタリアから帰ってしばらくその事に気付かなかった。私は小麦粉をフィレンツェにある自然食品(無農薬)専門店のものを使っているからである。修復に使う材料としては大量には必要でないので、毎年イタリアに行く度に、きめの細かい上質の小麦粉をこの店から買って帰っていた。だから問題は起こらず気がつかなかった。

 日本の小麦粉については、用途別に分かれているものの使われている麦がミックスなのか単体なのか、どのような性質なのか、製粉会社に問い合わせたが判らなかった。日本方式の研究も必要だと思っている。

 二つ目は一般にオランダ方式と言われているワックスによる方法である。材料は主に蜜蝋と天然の樹脂で、日本では強化ワックスとも言われている。オランダ地方は土地が低く,海面より低い所もある。寒くて湿度の高いこの地方では、絵画の修復を行なう時にカンヴァスに湿気が入らない方法が発達した。材料には水分を全く含まず、修復後にはワックスの性質上湿気を完全に遮蔽してカンヴァスの動きを止め画面の亀裂の発生を防ぎ、防カビ,防虫にも効果がある。戦後日本から絵画修復の先進国であるヨーロッパに留学した人達は主に北ヨーロッパでオランダ方式を学んで帰った人達が多かった。確かに湿気の多い日本では保存のためにはオランダ方式が有効であると思われ、かなりの間このやり方が主流であった。しかし良い事ずくめのように思われるオランダ方式にも欠点はある。

 膠と違ってワックスを液状にして使用するには摂氏70度以上に暖めなければならない。そして一度絵具層にしみ込んだワックスは永久にその性質を変える事がなく、再び修復する必要が起きた時にはワックス以外の材料を使用する事が難しくなる。又他の材料と比べてワックスの重量が重いため作品全体が重くなり、作品のサイズが大きくなるに従い絵にかかる負担は大きくなる。

 それより重要な事は、ワックスの光に対する屈折率が乾性油や膠と比べると大きく異なることである。人間が物体に色を感じるのは、光が物体に当たって反射した電磁波を目がとらえ、その波長の長さの違いによって色の種類を認識しているのである。したがって屈折率の違いはそのまま修復前の色との微妙な違いとなって表れる。それは微妙な変化ではあるが、厳密に言えば修復の基本的理念に抵触する事となる。修復に当たっては作者の表現を絶対に変えてはならない事が鉄則だからである。作品の保存を重視するか、作者の表現を重視するかの二者択一を迫られる場合は、持ち主と修復家は十分検討し話し合って結論を出す事が重要になる。

 第三の方法は化学合成糊を使用するもので、一般に合成樹脂と言われるものである。合成樹脂にも接着力は強いが溶解温度が高いもの、逆に溶解温度は低いが接着力はさほど強くないもの等いろいろある。これらは様々な国でいろいろな形で生産されている。使用するにあたっては修復目的に合致した性質を持っている製品を選ぶ事である。例えば膠と併用する場合は溶解温度が摂氏60度以下のものを使うとか、湿気を防ぐのが目的の場合は接着力が弱くても温度処理が容易なものとか、裏打ち用には温度を犠牲にしても接着力が強いものを選ぶと言った具合である。

 光の屈折率は乾性油とほぼ等しいので色の変化を心配する事はない。非常に具合の良い材料と言える。ただしワックスと同様可逆性はない。初期の合成樹脂には問題が発生した例があり、遠い将来絵画層に染み込んだ合成樹脂がどのような影響を与えるかは未知数である。

 美的修復についてはまず画面のオリジナルの色を知る必要がある。そのためには画面のクリーニングが必須となる。そのクリーニングの難しさについてまず理解してほしいと思っている。作品がどこに保存されていたかによって汚れは全く異なってくる。ローソクの煤、タバコの煙、厨房近くにあれば油、わざと古く見せるための色を入れたワニスなど。

 溶剤を使ってクリーニングすることは、その選択を間違うと絵具の表面が溶けたり変色したりしてオリジナル性を完全に失ってしまう危険な作業である。私が勉強していたフィレンツェの研究所でも三年目にならないと実地には教えてもらえなかった。最初の一年で化学の基礎をしっかりたたき込まれ、二年目で絵画に影響を与える微生物やカビ、苔類、害虫等について化学的視点で勉強し、その後でないと実際の作品ではなかなか実習させてもらえなかった。

 一方絵具層が厚く筆致が見えるのがその作品の持ち味である絵とか、反対に非常に薄塗りでなめらかな表面を持ち味とする絵など画面は一様でなく、夫々クリーニングには細心の注意を払わないと取り返しのつかなくなる絵がほとんどなのだ。

 素人が中性洗剤を含ませたぬれた布のようなもので拭ったと思われる絵の修復を頼まれた事があった。拡大鏡でよく見ると、微妙なひび割れの中に汚れが入り込んでいて、絵の仕上がりに微妙なくすみとして現れ、何度か後戻りしてやり直しをする事となった。

 欠落した画面に補彩する最後の色合せは訓練が必要な作業です。教室でも最後の仕上げで苦労する生徒は多くいます。訓練を重ねる事によって、より早く的確に最後の仕上げが出来るようになって来ます。

 工房の壁には生徒の仕上げた作品を、修復前の写真とともに飾っていますが、他の用事で工房を訪れた人も見比べて『どこを直したか判らないものですね』という感想を漏らす人がたくさん居ます。修復した箇所に紫外線を当てなければ判らない。

 修復教室の作品は、もちろん実際に依頼された作品を使うのではなく、骨董商やオークション会社を通じて仕入れた作品を使っています。中にはより大きく壊れていたり、汚れがひどかったりしたものも多く、生徒達は失敗を恐れる事もなく、実際ではなかなか出来ないような経験をしている。滅多にないような特殊技術も中級クラス以上の人には教えることにしている。例えば板絵をキャンバスに移す方法とか紙に書かれた油彩画をキャンバスに移すとか、額縁の修復ではいろいろな金箔の貼り方を教えている。その他周辺の技術もたくさんあります。

 私も工房や修復教室と共に研究し、成長して来ました。まだまだもっと先まで遥かな道がある。 


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